思考 言葉 意識 病気 無 瞑想
僕は頭の中で暴れまわる言葉の竜巻から逃げ出したくなったことが何度かある。
誰に学ぶともなく、瞑想に逃げ道となることを期待して、いつから取り組んでもう数年だ、(といってもわずか2年程度だが)
ドストエフスキーの小説のあとがきで昔読んだ気がするよ、意識は病気だって。
意識ってある意味言葉によって構成されているものだと思わないか?
そう考えるとするならば、おれはただ病気を治すために頑張ってきたってことなんだ。
自意識過剰、病気とまではいかなくたって、これも似たようなもんでさ、煩わしく感じたりしないか?
その取り組みが今どういう風になっているのかってのを、その恩恵などたかがしれているが、リアルな言葉で記録しておきたいんだ。
これが必要になる人のことを頭の隅っこで考えることを忘れずにね。
箇条書きでもいいかな?嘘くさくなるよりは・・・自分の為にもならなきゃ意味ないしね。。。整理しながらでいいよな、もちろん?
無理は禁物だ。俺は体んの調子が悪くなりやすい、神経が弱ってる、活力が出てこない、おいおいまだ十代なんだぞ・・・!?これからどうなる!?なぜだれも手を貸そうとしてくれない?友達のふりして俺を笑ってやがるな・・・いやいや、こんなの、こんなのが俺の人生だなんてありえない!!どこか間違っているんだ。。。どこだ?どこなんだ?!さあ、探し出すぞ・・・そうだ目をつぶって考えるんだ・・・やがておれはここからいろんな本をいろんなところから引っ張ってきて読むようになったが、、、目をつぶって考えてちゃ、現実は見えてこないことには気づかずにいたな。
だから引きこもりだったんだ、でもおれは自分の心の中を覗きつずけずにはいられなかった、そこには奇妙な力も働いていた、やはり、家にずっといたことも要因のひとつだろう。
タイトルの話をしたいのだが指が勝手にこの時のことを書いてしまってる、でもこれはきっとなにかかんけいがあ関係があるからなんだ、おれは神経ではなくこころでこのまま作文していくよ。
話は飛ぶんだ、やがて、ポツポツと軽作業のバイトだとかをし始めたり、文字通り街をさまよい歩いたりするだけの日々もあって・・・(このころの記憶は曖昧だ←スッカラカンなだけかもな)
やがて自分の心の探求(のつもり)の読書や物思いに耽ることから、それが生み出す周りとの障壁に苛立つことが辛いと感じるようになっていったのかな。。。自分でもわからないところってあるよ。な?(この口調は一体なんだと自分でも思う、ムカつきますよね?←じゃあ喋り方変えry)
そうして次第にネットで検索して瞑想を見よう見まね(?)でやりはじめたんだ。
最初はおかしな生活でおかしな精神状態になっていたからそりゃ変なイメージばっか浮かぶときもあったさ、、、いや、さすがにまだ筆舌に尽くせぬといった感があるな。。。(自分でも引いてるというか)
続きはまた今度。今回は全体的に痛いな笑