醜い結果を警戒して、綺麗な言葉をならべてちゃ、心は濁っていくだけなんだ。
難しい問題です、欲しい答えをあげることは時に侮辱でさえあるのです、
それはその、ほら、これでいいんだろ、という、人間の気持ちを安易に
ただでさえ曖昧な言葉のやり取りの中で、わかりきったものに変えてしまう、
いや、それでいいやと思わせてしまうような、曖昧さを逆手に取った悪徳、
考える必要はこれ以上ないと思わせてしまう、うわべだけの、その場しのぎの、会話。
それ以上深い関係になれないことに気づいて、変えなければいけないと思う。
納得したと思えば、したことにできてしまうけど、あとでそれは気のせいだった、
違ったと気づいた時、その時交わした会話の意味も、得たと思っていた人間関係も、
別の、新たな問題へと姿を変えて、また人を悩ます何かになってしまうから。
問題なのは、30分一話のアンパンマンみたいなアニメのように、30分の会話の中で
わかりやすく味方として立ち回る事に気を遣うことを思いやりだとするのではなくて、
本当に大切な人間関係を気づける相手かどうかを明らかにするために、ただただ
真摯に建設的な言葉のやりとりを積み重ねていくことじゃないかな。
互いを理解していくこと、なんじゃないかな。
それは必ずしも、仲良くなるためだけなんかじゃなくて、
互いの違いを発見していくことも同じくらい大事なんじゃないかな。
醜い結果を警戒して、綺麗な言葉をならべてちゃ、心は濁っていくだけなんだ。
勇気って、真摯に一つ一つ自分について語り、人に本当にありたいと願っている自分を明らかにしていくことじゃないか。