家族すら怖かった。
僕のウンコのような恐怖をここに惨めにぶちまけてすっきりしてやろうと思う。
家族からの疎外感を、父からの底しれない悪意を感じる。
僕だけがなんだか本当は家族だと思われていないみたいだ。
こんな気持ちは到底ブログでしか書けない。。
10代の頃からずっと怖くて怯え続けている。
・親戚・知人に僕の愚痴を言いふらしている。
・学校とのコンタクトを不登校児に意図的に棒がした。
(学校に対して、僕がコンタクトを拒んでいるという事実出ないことを伝える)
・自殺するまで放置する気でいる、なんとも気にかけていないとおもっているのではないか。
・家庭内の他の関係(夫婦・親子間)を円滑にするためのスケープゴートにされている
・僕の悩みや感じている苦痛に一切の共感をせず、相談に乗る気は無く、そうしたメンタル面のサポートすら、ただただ面倒・重い・自分がやりたくないと考え俺という存在そのものを切り捨てることを厭わないように思う。
・不安や悩みを解消する情報を知っていても教えない徹底的な非協力的姿勢があるように思う。
怖い。怖い。とにかく怖い。
序文に書いたことに多少反してもある程度勢いで書かなければ僕の筆の一歩一歩はすぐにこのネガティブな心の泥沼にはまって動きを止めてしまうだろう。
僕はこうして自分の心に移る現実に、家族のあり方という問題に向き合おうとするだけで情緒不安定になる。
僕は引きこもり貴重な十代の後半という時間のほぼ9割を家の中で過ごした。
そのうちの半分くらいはネットを見て現実逃避をしていたかもしれない。
かもしれないというのは、もっとネットを見てぼーっとしてた時間が長かったかもしれないけど、測っていた訳でもないのでわからないということだ。
「わからないけど」という前置きで話してる自分が真剣味に欠けてるように思ってしまう。
だけど自分のその時の生活の様子を振り返るものさしすら、僕には持ち合わせてなどいないのだから、そこについてはかもしれないとしか言えないのだ。
これはある意味自分の罪を白状するとき、できる限り言葉を濁す不誠実さに似た印象を与えてしまう気がする。
「ねえ、この時の俺ってどうだった?」なんて聞く相手もいない(家の中でも外でも一人だったから)ことがどんなに悲しかったか。俺はまるで籠の中に隔離された動物みたいに自分を惨めに思うし、
「その頃を振り返るものさしすらない」ことにすごく欠落感と脱力感を感じる。
そうだ俺はペットが健康を維持するための散歩程も外に行かなかったかもしれない。
ああ俺は俺自身に問い詰めたくなる。
まるで盗んだお菓子の数、罪の重さを自覚させる為に
「おまえが外の世界で経験を積むべき時間を、家の中でくだらないものを見るのにどれくらい費やしたんだ!わからない?!わからないで済むか!できる限り正確に答えるべきだ!1秒単位で自分の(若かった自分にたいして犯した)罪を自覚すべきだ!」
と、有罪にしてやろうと必死な検察官か何かのように。
これは読む人にはどう映るだろう。
正直やっぱ書いてるだけで疲れるし頭がバカになっちゃう。